【PROFILE】1946年東京都北区滝野川生まれ。会計事務所の経営する父親のもと、恵まれた家庭で何不自由ない少年時代を過ごす。クレージーキャッツに憧れ将来は笑いの世界へ進む決心をしていたが、駒沢大学に入学して、落語へと傾倒する。落語研究会、いわゆる落研のない大学に昭和41年「落語くらぶ」を創部。話芸の道を極め、大学四年の時に、「洒落小町」で重要無形文化財保持者の認定を受けた、小さんの落語を聞いた。又、幾多のタレント弟子を育てて、駒澤大学の「文化部の花」と呼ばれるまでの名物サークルに成長させる。卒業後、平成3年に落語くらぶOB会を創設、無選挙にて初代会長となる。平成13年、脳梗塞で倒れるが、「創部35周年記念パーティ」で奇跡の復活。平成18年6月をもって15年間務めてきたOB会会長を勇退する。

 

ひたむきな「笑い」への情熱と運命的な出会いで落語くらぶが誕生した

 

考えてみれば子供の頃から人を笑わすのが好きだった。中学時代の頃はハナ肇とクレイジーキャッツが大好きだったんだ。自分にとって憧れの的だったね。

駒込高校で現在のOB会副会長の嶋田君と出会った。当時はお互い若かったね。彼は高校時代から落研にいて落語がうまかった。彼には落語のことはいろいろと教わった。ただ、当時から女の趣味だけは悪かったね。ゲテ好みっていうか、かなりマニアックだね。でもそんな彼との出会いが落語の面白さにふれるきっかけとなったんだ。それから当時人気絶頂の林家三平師匠や「授業中」の三遊亭歌奴師匠(現円歌)らの落語を生で聞き、落語にのめりこんでいったんだ。

当時の一番の楽しみは月に1度、馬場先門にある東商ホールでTBS主催の「落語名人会」を観に行くことだった。メンバーは今思うとホントに凄かった。桂文楽、三遊亭円生、林家正蔵、三遊亭円遊、柳家小さん、蒼々たる大師匠ばかり。自分は特に円遊師匠の「堀の内」が大好きで、面白すぎて鳥肌がたったね。

都立駒込高校時代は、がり勉でエリートクラスに入っていた。同級生の嶋田君とは成績もまるで違っていたしクラスも別だった。彼は駒澤大学一本に絞り、推薦枠で見事合格。入学式の日に「宮川、あんなに勉強してたのに、俺と一緒の大学か!」とうれしそうに俺の肩を叩いた時には、正直絞め殺してやりたかった。

この時嶋田君と再会したことによって、その後の人生が決定付けられたんだと思う。そしてもう一つの運命的な出会いは中田先生。昭和41年4月、大学講堂で行われた入学時のオリエンテーションでの中田先生の挨拶は一生忘れられない。「この大学には落語くらぶがない。もし創りたいものがいれば私のところへ来なさい。」そして、その年の6月21日、私と嶋田君の落語くらぶは誕生した。

 

部長 福井守                            

副部長 琳谷元雄

名誉顧問 中田英彦

顧問 拓殖忠章

代表部員 宮川修

同 嶋田明

 

落語くらぶ門出のスタート、設立時のスタッフである。部員は二人だけであった。後期に入り(当時、夏休みは7月1日から8月31日までであった。後期は9月1日から始まった。)寿崎君、吉川君、西川君、渥美君、柳沢君、鈴木君、篠原君らが同士として加わり、1年生10人足らずで大学祭に参加し旗揚げ興行を盛大におこなった。特に10月16日、三遊亭円楽師匠、蝶花楼馬楽師匠を招き、あの体育館を超満員にしたのであった。

 

「本当にうれしかった。」創部の時の我々にとっての大きな夢だったのは、大学祭で大物落語家を招待して盛大な落語会を開くことだったんだ。そして師匠と同じ高座に上り落語を演じる事。

 

実はあの人間国宝の柳家小さん師匠が来校するはずだった。幸いなことに嶋田君の中学時代の友人に柳家小さん師匠の長男であり弟子でもある柳家三語楼師匠(当時は柳家小えん)がいた。その伝手で小さん師匠の出演依頼をお願いして了解を取り付けた。プログラムもあがり、校内外に「柳家小さん来校」の立看板・ポスターを張りめぐらし準備万端だった。

 

ところが大学祭直前「申し訳ない、小さんが行かれなくなってしまった。そのかわりに若くて今、売り出し中の三遊亭円楽師匠とベテランの蝶花楼馬楽師匠をいかせる。それで勘弁してくれ。」と三語楼師匠から連絡が入った。あわてた、あわてた!プログラムはもう印刷屋に出して間に合わない。ガリ版刷りに切り替え、立て看板・ポスターは書き直して差し替えるという大混乱状態だった。そして何よりも噺家が一人から二人になり、お金が足りなくなってしまった。大学祭直前だというのに落語の練習をせずに、みんなして資金稼ぎのアルバイトに行ったのである。顧問の中田先生、拓殖さんはじめ学生部の人に援助をしてもらい、なんとか資金不足は解消した。おかげで大学祭の落語会は無事に超満員という大成功の内に終了した。それも1年生だけである。マラソンの有森さん流にいうと「自分で自分を誉めてあげたい。」そんな気持ちである。もし三語楼師匠と嶋田君が友人同士じゃなかったら、円楽・馬楽師匠もそして、2年後に呼んだ春風亭柳朝師匠も大学祭に来てくれることはなかったろう。

 

   

一度死んだ男

平成12年5月24日(日付は25日)の深夜、急に右手が麻痺し、近くの救急病院に直行し即、入院となってしまった。自分の気持ちとしては2,3日入院し、点滴を受け血圧を下げる薬を飲めば、すぐに退院できるものと思っていた。ところが翌昼、病院長が私に言ったことは、「万が一、宮川さんの容態が急変した場合、当病院では宮川さんの命を守る保証ができない。ですから、これから都立豊島病院に転院します。いいですか。」と院長に言われた。「はい、わかりました。先生におまかせします。宜しくお願いします。」と答えるしかなかった。

自分はこんなに元気なのになんでなんだろう。集中治療室まで入れられて、オレはもう死ぬのかな〜。人間こんなに元気でも死ぬ時は死ぬんだ。と変に納得しながら移動する救急車の中で自問自答していた。道を歩いているとよく通る救急車、ピーポーピーポーと聞こえてくる救急車のサイレンの音。自分はその救急車の中で点滴を受け救急隊員に見守られながら次に移る病院に向かっているのである。

豊島病院ではナースステーションに一番近い病室に入れられ、鼻に管を通され酸素吸入、尿道にも管を通され絶対安静の状態が3日続いた。その後は順調に回復し、リハビリに精を出し6月23日、無事に退院することが出来た。軽い脳梗塞で本当によかったと思っている。

口の悪い友人や仲間に「宮川は一度、死んでるんだよな。」とことあるごとに冷やかされる。医者からも「予断を許さない状態」だったと言われていたことを最近、女房が話してくれた。自分の病気に対する認識不足で絶対にやってはいけない病気をやってしまった。今更後悔しても始まらないのだが・・・。しかし九死に一生を得たことだけは間違いないのである。神様に感謝せねばなるまい。2度もらった命である。世の中の為?家族の為、落語くらぶの為に何かをやらねばという思いが強すぎて逆にそれがプレッシャーとなり、前にも増して無理をしてしまったようだ。無理をしてはいけないとわかっていてもついつい無理をしてしまう。性分だからしょうがないのかもしれないが。脳梗塞の後遺症で右手右足に若干の障害を抱えている以上、もう無理が利かないことを悟ったしだいである。これからは自分の体と相談しながら、無理をせずに落語くらぶの皆と付き合っていこうと思います。

創部40周年もまじかに迫ってきた。そのときは大好きなビールを思いっきり飲み、皆と祝杯をあげたいと思っている。再会を楽しみにしてます。